今回は31年前の今日、平成元年1月7日の話。
私がローカルテレビ局に勤めていた頃の話です。
入社して4年弱、天皇崩御に伴う仕事をするのは初体験でした。
と言っても、新人の私だけではなく、当然ながら会社にいる誰もが初めて体験することだったんですけどね。
日本中が喪に服した1年だった。
その日の朝のこと。
昭和天皇のお身体の調子が思わしくないということは、数年前から公然の秘密状態でしたので、テレビ局でもその時用のマニュアルが作成されていました。
放送局の関係者にはいちはやく一報が入ることになっていたので、すぐに社員たちが会社に出動できるよう緊急連絡網も準備されていましたし、主要な社員たちは海外に出かけることも控えていました。
私も、当時は携帯電話なんてものはありませんでしたから、家族に「会社から電話が入ったらすぐに出社しなければならないから教えて」と伝え、準備は万端状態。
しかし、その時は幸いにもなかなか訪れず、次第にみんなの緊張も緩み始めていた頃……。
1月7日の土曜日の朝。
ベッドでうだうだ寝ていた私に母親が「ちょっとあんた、天皇崩御ってニュースでやってるよ。会社から電話はないけど」と。
ひぇぇぇーーーー!どうして電話が無いのーーーー!
と、あわてて身支度をし、会社へと向かったのでした。
粛々とと仕事をこなした。
当時私は営業関係の部署にいたのですが、昭和最後の年末年始の頃には「まだ大丈夫なんじゃないの?」という空気が流れ始めていたんですよね。
そのため何人かの同僚が前日の深夜にスキー旅行に出発してしまっていたのですが、「帰って来い」の指示が速攻で出され、あえなくそのままUターン。
家にいたため早めに会社に到着できた私は、上司の指示の下、せっせとCM差し替えのための作業をしました。
今でも何かがあるとCMが公共広告の素材だらけになりますが、そのための作業のことです。
しばらくすると社内には少しずつ人が増えてきましたが、さほど混乱することなく、みんな静かに粛々と仕事をこなしていたことを今でも覚えています。
もちろん翌日の日曜日も休日出勤。殆どの社員たちが土日とも出勤していたんじゃないかと思います。もうあんまり覚えていないけど。
しかし、なぜ電話での緊急連絡がなされず、ニュースで知ることになったのかは今も謎……。
平成元年は喪に服した年だった。
当時を知る人は多いと思うので、私がわざわざ書くほどのことはありませんが、一番印象に残っているのは、地元の中日ドラゴンズが優勝したのに、自粛のため殆どお祝いムードにならなかったことでした。
……と書こうと思って調べたら、ドラゴンズが優勝したのは前年の1988年。昭和63年。
まだ天皇が崩御される前だったのに、もうこの頃からいろいろ自粛ムードだったんでしたっけかね。
日本中がなんだか暗いムード一色でしたよね。
平成最後の1月7日。
いろいろと思い出し、私にとっても感慨深い1日となったのでした。