4回の転職を経て、50代、55歳で早期退職した私。
今回はその33年強の会社員生活の中でダントツ辛かったとある経験について書いてみようと思います。
自分としてはあまりにも辛くて消し去りたい過去なので、これまで家族や仲の良い友人にも詳しいことは殆ど話したことがありませんでした。
でもこの出来事が、その後の私のキラキラした経験や、ステキな人たちとの出会いに繋がっていたということに、会社員生活をやめてみて改めて気づきました。
この出来事なしに私の会社員人生は語れないので、この機会に思い切って書いてみようと思います。
会社をクビ宣告されたことが憧れの会社への入社に繋がった。
Contents
転職2回を経て3社目の会社に入社。
名古屋の大学を卒業して地元テレビ局で6年勤務した後、上京して派遣社員を経て2社目となる会社に就職した私。
総合職的な仕事ではなくアシスタント的業務ばかりだということが自分の考えていた方向性と違っていた上に、20名ほどしかいない社員間の人間関係もあまりよくない会社だったので、入社して早々に転職を考え始めていました。
なかなか転職先がみつからずに2年が経とうとしていた頃、同じ業界で仕事をしていた友人から誘われて、外資100%の会社に転職することが決まりました。
そこは世界的なメディアグループの日本ブランチで、社員は数人しかいない小さな会社でした。
当然ながら仕事に英語は必須だったのですが、私は英語が苦手。(英文科卒業なのに)
でも入社前の英会話面接は、なぜかすんなり通ってしまったのです。
英語ができなくて仕事にならなかった。
簡単な英会話ができても、やはり仕事で使う英語は別物。
専門用語も飛び交うし、対面ならごまかせても電話での会話はできないし、ビジネスレターも書いたことが無いし、今から思うと本当にダメダメな使えない社員でした。
高額な英会話スクールに通ったり、自宅でCNNをつけっぱなしにしていたり、様々な努力はしていたのですが、そう簡単にビジネス英語が身に付くはずもありません。
突然のクビ宣告。
理由はそれだけではなかったのかも知れませんが、入社から3か月ほど経ったところで支社長(日本語ペラペラのオーストラリア人)から呼び出しが。
「ニュウシャカラ ハントシゴノ〇ガツイッパイデ、アナタトノケイヤクハ シュウリョウサセテイタダキマス」
「???つまりクビっていうこと????」
頭の中が真っ白になるってこと本当に起きるんだ。
時間が止まるってこと本当に起きるんだ。
そう思うくらい、ショック過ぎてしばらく呆然。
いくら英語ができないという自覚があったとは言え、仕事は真面目にしていたつもりだったので、まさかクビ宣告されるとは思ってもいなかったのです。
「アナタハ カイシャニトッテ フヨウナヒトデス」宣告の衝撃。
日本の企業に勤める会社員は労働法でしっかり守られているので、「クビ」という概念はありません。
よほど悪いことをしたか、病気で長期間求職したか、会社が傾くほど業績が悪いか、いずれかの理由が無い限り退職勧告されることは無いからです。
しかしマヌケなことに入社時には気づいていなかったのですが、その会社の日本人社員はみな契約社員でした。
もちろん私も契約社員だったので、正確に言うと「クビ」ではなく「契約打ち切り」だったのです。
いわゆる「雇止め(やといどめ)」ってやつ。
まさか自分がその対象になるだなんて思ってもいなかったので、そのショックの大きさたるや……。
自分が「会社にとって不要な人間だ」というレッテルを貼られることがこんなに辛いだなんて……。
ふと気づくと止まらない涙で顔がぐちゃぐちゃになっているし、これからどうしようと考えるだけで頭は真っ白。
本当はそのクビ宣告から数か月は働くことができたのですが、モチベーションを保てそうにはとうていなかったので、その月いっぱいで退職することと、転職に有利な推薦状を書いてもらうことを支社長にかけあって了承してもらいました。
でも、仕事なんて全く手がつかないし、最期の出勤日に「おつかれさま」なんて言われた時に自分がどうなってしまうか想像するだけで怖かったので、最後の日の前日に荷物をまとめて仲の良かった人に「明日は出社しないから」と伝言だけ残し、翌日は出勤しませんでした。
社会人として非常識なやり方だとは重々承知はしていましたが、たぶんメンタルがかなりやられていたんだと思います。
そうせざるをえないくらい、心はズタボロだったのです。
実はクビ宣告よりも辛いことがあった。
クビと言われたこと自体も相当辛かったのですが、実はもうひとつあまりにもショックな出来事がありました。
それはクビ宣告される少し前のこと。
全社員(と言っても10人未満)が集まったミーティングでオフィスの引っ越しについて支社長から説明があり、新オフィスでの座席図が配られた時のことでした。
あれ?座席表に私の名前が無い?!
その時点ではまさか自分がクビになるなんて思ってもいなかったので、「私の名前が無いんですけど?ひどくないですか?(笑いながら冗談っぽく)」と支社長に訴えたら、「ゴメンゴメン、ワスレテマシタ」と薄ら笑いを浮かべながら謝られました。
そしてその数日後にクビ宣告され、自分の名前が無かった理由を改めて知ったのでした。
ミーティングで私の名前が無い座席表を配ったのはわざとだったのか、うっかりだったのかは今でもわかりません。
でも外国人のその支社長はちょっと意地悪なところがあったので、わかっていて配ったんじゃないかって今でも疑っています。
その後、ミーティングの時点で既に私がクビ宣告されることを知っていた社員もいたことも知り、更に大ショック……。
この出来事は、しばらく人間不信に陥ってしまったほど、私に大きなトラウマを残したのでした。
どうやって暮らしていくか途方に暮れた日々。
家族の反対を振り切って意気揚々と上京したのに、これからどうしよう。
いっそホームレスにでもなろうか。
留学でもしようか。
もう二度と仕事なんてがんばるものか。
会社員になんて二度となるものか。
そんなことばかり考える毎日が続きました。
救世主あらわる。
辛い日々を送りながらも、お世話になった社外の方々への挨拶行脚だけはしていました。
そんなある日。
業界誌を発行している会社にも挨拶に行って辞めることになった経緯を説明したのですが、後日その会社の方から「A社の社長が広報をやってくれる人を探しているんだけど、会ってみない?」と電話があったのです。
しかしその時の私には会社勤めをする気持ちが全くなくなっていたので、A社に入社するつもりも全くありませんでした。
でもせっかく私のことを心配して紹介してくれようとしているのに断ったら申し訳ないと思い、面接だけは受けることに。
この業界誌の方からの1本の電話、そしてその面接が、その後の私の人生を大きく変えることになろうとは、この時は知る由もありませんでした。
長くなってしまったのでつづきは以下のPart2で。
